オスカーは、20年間ベジタリアンとして過ごしてきた。
そんなオスカーはとある祝宴の席につきながら昨日のことを思い出す。
家畜の豚であるプリシラは、遺伝子操作によって話すことができ、
そして、食べられることを至高の尊い行為であると感じる文化を持っている。
命を終えて、別の命の糧になることが待ち望んだ喜びであった。
そんな話を聞いたとき、「食べないと失礼に当たるなぁ」と思った。
そして今日、皿の上に肉料理が並んでいる。
プリシラは、昨日の部屋にはいない。
おいしそうな豚さん
ベジタリアンのオスカーに祝いの席だからって肉料理を出すのが間違っているんよ、だからオスカー視点だと食べないしか浮かばなかった
確かに、主義主張などの問題と、命と彼らの意思を天秤にかける問題は切り分けた方がいいかもしれません。また、プリシラは料理されているので人生について説きようがありませんし、プリシラ以外の家畜に人生を説くのであれば、料理を食べるのか問題は残ります。1~3番目の選択肢と4番目の選択肢も別問題だと私は思います。
オスカーの持つベジタリアンとしての倫理と「食べないと失礼に当たるなぁ」と思ったときの倫理をオスカー自身の中で折衷して個人的に解決するしかない問題なので、オスカーでない自分が答えを出すことはできません。
どのみちプリシラはもうお亡くなりになっているので、プリシラにしてあげられることは何もありません。食べないといっても命は戻ってこないし、プリシラの意向を汲んで食べたとしても、プリシラは死んでいるのでそれを伝えることはできません。
プリシラが生きているうちに「必ず美味しく食べる」と約束してあげたり、美味しく食べられること以外の価値観を説いて別のよりよい余生を送らせることはできたのかもしれません。でも時すでに遅しです。
なので「あなたならどうしますか?」への回答は「喜んで食べる」です。
誰かのためではなく、自分のために、いただきます。おいしそうな豚さん!
オスカーが何を思ってベジタリアンとして過ごしていたのかが分からない。動物の命を奪うなんて、とか、動物を食べる為に家畜化するなんて、とかそういう気持ちだったなら心情的には美味しく喜んで食べれると思う。健康志向でベジタリアンだったなら、動物の気持ちとかは考えないだろうから、自分の体のために食べないことを選ぶと思う。
でも、20年間も肉を食べずに生きたなら、急に食べると体おかしくすると思うからやめといた方が良いと思う。でもこれ心情的に判断する問題だよな…、うぅん…、と困ってる。
プリシラは食べられることが幸せ
オスカーはベジタリアンとして過ごすことが幸せ
オスカーは何らかのきっかけで自らの意思でベジタリアンになることを選択しているのに対しプリシラは生まれた時からの当たり前の概念に幸せを感じている
オスカーはプリシラを食べることによって自ら選択した生き方を踏み外すべきではないしプリシラはもう死んでいるんだから食べられようと捨てられようともう感情が湧くことはないから、オスカーが食べたことによって、その後も生き続けるオスカーのベジタリアンとしての選択を尊重するためにも食べない選択肢を選ぶ方がいいと思う。
ベジタリアンである理由が重要。それ次第でしかない。「彼らが可哀想だ」という理由なら食べても良い。その彼自身がそれを望んでいるのだから。「肉を食べるなど気持ち悪い」ということなら自分の好みと豚の意思のどっちを優先するかと言う話。ベジタリアンである理由によって食べる・食べないの理由も変わるので判断はできない。
それが供養になるなら食べるが、人間に都合が良い文化を教え込まれて信じてるのが悲しい。
そもそも喋らせる技術があるなら培養肉作れと言いたい。